転生したら太子だったんだが、なぜか後宮が私と息子の禁忌の恋に沸き立っている

転生したら太子だったんだが、なぜか後宮が私と息子の禁忌の恋に沸き立っている

ロマンス完結71 話

7.86 m

登場人物: 蘇貴妃、皇太子

読む
日本語

あらすじ

東宮の夜が噂になる。妃嬪も宮人も皇太后までが、皇太子と蘇貴妃の仲を推している。真相はもっと奇妙だ——転生した一家が、後宮の誤解の渦に放り込まれただけだった。皇帝が真相を暴こうとした瞬間、宮中は言葉を失う。誤解と推し活と帰還期限が絡まる完結の宮廷コメディ。

タグ

第1話

「もう一回。」

「本当にこれで最後だから。」

「お願いだからぁ。」

深夜。東宮の寝殿から、甘ったるい女の声が途切れ途切れに漏れていた。

外で警護に立つ宮女や宦官たちは、皆そろって顔を真っ赤にし、俯いたまま息を殺している。

誰もが知っていた。ここ数ヶ月、後宮にはある“公然の秘密”が存在していた。

――皇太子殿下と蘇貴妃様は、ただならぬ仲である。

しかも、その仲の深さときたら尋常ではない。毎晩のように密会を重ね、一時も離れたくないほどの熱愛ぶりだという。中には、蘇貴妃様が七日間も東宮に泊まり込み、一度も外へ姿を見せなかったという現場を目撃した者までいた。

噂はすでに六宮中に広まっていた。妃嬪たちはこっそり盛り上がり、宮女も宦官も陰ながら応援。さらには皇太后様までもが、密かに二人の仲を推しているという始末。

ついには――『皇太子×蘇貴妃・公式応援団』などという、聞くだけで恥ずかしくなるような組織まで結成された。

情報共有。証拠隠滅……ではなく、秘密の保護。そして二人の仲を邪魔する者の排除。彼女たちは全力で“推し活”に励んでいた。

そして、この後宮で唯一、その事実を知らなかった人物がいた。

――皇帝陛下である。

もちろん、それは“つい先ほどまで”の話だ。

今。東宮の外。夜の闇の中に立つ皇帝の顔は、もはや墨をぶちまけたように真っ黒だった。

大太監の福海は地面に額を擦りつけ、震える声を絞り出す。

「へ、陛下……! こ、これは……何かの間違いでございます……!」

皇帝は冷ややかに笑った。

「……間違い?」

その瞬間、寝殿の中から、またしても女の声が響く。

「もっと早く!」

「もっと速く!」

「あぁーーっ!」

皇帝の額に青筋が浮かび上がった。

間違い? これのどこに間違いがあるというのだ。生まれてこの方、これほどの屈辱を味わったことなど、一度たりともない。

「ドォンッ!!」

次の瞬間、東宮の扉は、皇帝の一蹴りによって無残にも吹き飛んだ。木製の扉が倒れ込み、東宮全体が一瞬で静まり返る。

そして――怒りに震える皇帝の声が夜空を切り裂いた。

「この……愚か者がぁぁぁ!!」

だが、室内の光景を目にした瞬間、その怒声はぴたりと止まった。

広々とした大殿の中央。そこにいたのは――蘇貴妃だった。

彼女は皇太子の背中にまたがり、片手で衣の襟を掴み、もう片方の手には木剣を握っている。小さな顔は、興奮で真っ赤だった。

「はい、走って!」

「お馬さん、もっと速く!」

「出発ー! 突撃ー!!」

一方、皇太子はというと――額いっぱいに冷や汗を浮かべ、四つん這いになって床を這い回っていた。

「……頼むから……」

「これで本当に最後の一周だからな?」

「約束しただろ……最後の一周って……」

しかし、蘇貴妃はぷくっと頬を膨らませた。

「やだ。」

「もう一回。」

「今度こそ最後だから。」

「お願いだからぁ。」

皇帝「…………」

福海「…………」

その場にいた宮人たち「…………」

時が止まった。死んだような静寂が東宮を包み込む。

私はゆっくりと顔を上げた。そして、門の前に立つ皇帝と、真正面から目が合った。

その瞬間、頭の中に浮かんだ言葉は、ただ一つ。

――終わった。

次の話

目次

71 話

  1. 第1話

    「もう一回。」 「本当にこれで最後だから。」 「お願いだからぁ。」 深夜。東宮の寝殿から、甘ったるい女の声が途切れ途切れに漏れていた。 外で警護に立つ宮女や宦官たちは、皆そろって顔を真っ赤にし、俯いたまま息を殺している。 誰もが知っていた。ここ数ヶ月、後宮にはある“公然の秘密”が存在していた。 ――皇太子殿下と蘇貴妃様は、ただならぬ仲である。 しかも、その仲の深さときたら尋常ではない。

    続きを読む
  2. 第2話

    話は、三ヶ月前に遡る。 あの日。俺は突然、異世界の物語の中へ転生した。 そして目を覚ました瞬間――俺は大周朝の皇太子になっていた。 十八歳。次期皇帝。将来、この国の頂点に立つ存在。 どう考えても。人生勝ち組ルート確定だった。 ……そう思った。少なくとも。あの声を聞くまでは。 突然。頭の中に無機質な電子音が響いた。

    続きを読む
  3. 第3話

    もしかすると。後宮の女たちは、あまりにも暇だったのかもしれない。 なぜなら――俺と蘇貴妃の「禁断の恋」を、全力で応援し始めたからだ。 息子が東宮に泊まる。それだけのことなのに。彼女たちの目には――「愛に身を焦がす貴妃の一途な恋」に見えるらしい。 俺が息子にお菓子を食べさせる。すると。周囲の妃嬪たちは手を握りしめ、頬を赤らめる。 「尊い……」 「甘すぎます……」 などと、勝手に盛り上がっている。

    続きを読む
  4. 第4話

    御書房を出た瞬間。ようやく、背中を伝っていた冷たい汗が少しずつ引いていった。 先ほどの皇帝の問いかけ。あれは決して、ただの親としての心配などではなかった。 言葉で追及することもない。決定的な証拠を突きつけることもしない。ただ静かに観察し、少しずつ圧をかけてくる。その距離感が、かえって恐ろしかった。 下手に怒鳴られるよりも。何も言われないほうが、よほど精神を削られる。 俺は完全に気を引き締め直した。

    続きを読む
  5. 第5話

    李大人の屋敷。 宴も三巡目に入り、私は杯を片手に、わざと酔ったふりをしながら李大人の肩に腕を回した。 「李大人。」 「あなたは博識で有名だと聞いている。」 「ならば、少しだけ私の質問に答えてもらおうか。」 李大人は慌てて杯を置き、姿勢を正した。 「殿下のお尋ねなら、何なりと。」 私は目を細め、ゆっくりと口を開く。 「もし、この世で最も人を惹きつける人物になるには……何が必要だと思う?」 その瞬間。

    続きを読む
  6. 第6話

    もちろん。すべての人間が、私の意図を理解できるわけではない。例えば、工部侍郎。 ある日、私は工事現場を視察していた。そこで、河川工事の進捗を確認している工部侍郎を見つけた。もしかしたら、こういう技術系の官僚なら、現代人らしい考え方が残っているかもしれない。そう思った私は、何気なく尋ねた。 「工部侍郎。」 「一つ聞きたい。」 「一つの大きな工事で、最も重要なものは何だと思う?

    続きを読む
  7. 第7話

    兵部尚書の屋敷を訪れた日のことだった。書斎へ案内されると、兵部尚書は申し訳なさそうに頭を下げた。 「殿下、少々お待ちくださいませ。ちょうど急ぎ確認しなければならない書類がございまして」 書類。その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を輝かせた。書類?この時代なら普通は奏状、公文書、軍報などと呼ぶはずだ。なのに、今この人は「書類」と言った。もしかして――。 私は期待を隠しながら、兵部尚書をじっと見つめた。

    続きを読む
  8. 第8話

    その頃、朝廷の片隅では。すでに顔色を失っている者たちがいた。 戸部の左侍郎が、周囲を警戒しながら小声で言う。 「……太子殿下、最近少し調べ方が細かすぎないか?」 工部侍郎がゆっくりとうなずく。 「確かに……」 礼部の官吏は青ざめた顔で続けた。 「先日は突然、私の故郷を聞かれました。」 「昨日なんて……家族は何人いるのかまで……」 三人は顔を見合わせる。話せば話すほど、不安が膨らんでいく。なぜなら。

    続きを読む
  9. 第9話

    三度目のことだった。皇帝陛下は、今度は私を直接、狩場へ呼び出した。その理由は―― 「太子の騎射はまだまだ未熟だ。もっと練習が必要だろう」 私はその場で固まった。騎射?私が?冗談でしょう?前世で私が馬に乗ったのは、会社の慰安旅行での一度きりだった。あのとき上司が、「若者なら、自分に挑戦しろ!」なんて言うものだから、何も考えずに馬に乗った。結果、馬が走り出すより先に、私は馬の背中から落ちた。

    続きを読む
  10. 第10話

    「何をつかまるんだ?」 「……あんたを、ですか?」 そう言い返す暇もなかった。次の瞬間、馬が突然駆け出した。 「うわああああああっ――!」 猛烈な風が、耳元を一気に吹き抜けていく。怖すぎて、魂まで飛び出しそうだった。頭の中が真っ白になる。考えるより先に、私は反射的に皇帝の腕をぎゅっとつかんだ。そして、これでもかというほど後ろへ身を縮める。気づけば私は、ほとんど完全に皇帝の胸の中に収まっていた。

    続きを読む
  11. 第11話

    帝王の異変にいち早く気づいたのは、朝廷で長年揉まれてきた古参の臣下たちだった。 北疆から八百里の急報が届き、大勝利の知らせが都へ伝えられた日。兵部尚書は朝早くから礼服に着替え、意気揚々と朝廷へ向かった。金鑾殿に立つなり、彼は熱弁を振るった。 北疆の将兵がいかに血を流して戦ったか。敵軍がいかに惨敗し、敗走したか。この一戦でどれほどの領土を奪還したか。

    続きを読む
  12. 第12話

    ついに、彼らも気づいてしまった。これはもう、単なる「陛下の太子びいき」なんて話ではない。陛下が太子を見るあの目。……おかしい。どう考えても、おかしい。あれは次期皇帝を見る目ではない。ましてや、息子を見る目でもない。まるで――そこから先は、誰も口にできなかった。 これ以上考えたら、不敬どころの話ではない。下手をすれば、全員まとめて首が飛ぶ。

    続きを読む
  13. 第13話

    翌日。御書房。 皇帝は、目の前でずらりと跪いている大臣たちを見下ろし、こめかみを押さえた。朝から、頭が痛い。 「申してみよ」 皇帝が短く言うと、礼部尚書が覚悟を決めたように一歩前へ出た。 「陛下」 「皇家の血筋は、絶やしてはなりません」 その表情は、まるでこれから国家の存亡に関わる重大な案件を奏上するかのように、ひどく真剣だった。

    続きを読む
  14. 第14話

    知らせが後宮に届いた瞬間。後宮中が、一気に騒然となった。 「陛下が今夜、蘇貴妃様のところへ?」 「どうしましょう?」 「陛下に真相を知られては駄目です!」 「いや、絶対にこの二人を……」 そこまで言ったところで。妃嬪たちは、示し合わせたように一斉に口を閉ざした。互いに顔を見合わせる。そして、何事もなかったかのように言い直した。

    続きを読む
  15. 第15話

    淑妃をようやく振り切ったと思ったのも束の間。皇帝が庭園を出たところで、今度は賢妃と鉢合わせした。今度の賢妃は、分厚い帳簿を何冊も抱えている。しかも、その顔は妙に深刻だった。 「陛下!」 皇帝が足を止める。 「何だ?」 賢妃は帳簿を開いた。 「後宮に、重大な問題がございます!」 皇帝の眉がわずかに動く。 「重大な問題?」 「はい」 賢妃は真剣な顔で帳簿を指差した。

    続きを読む
  16. 第16話

    それから半刻後。皇帝の目の前には、ようやく貴妃宮が見えていた。皇帝が中へ入ろうとした、その時。背後から、突然しわがれた声が響いた。 「皇帝よ」 皇帝の足が止まる。振り返ると、そこには太后が立っていた。皇帝はわずかに眉をひそめる。 「母上」 太后はにこにこと笑いながら近づいてくる。 「ちょっと、母上と話でもしないかい?」 皇帝は即答した。 「朕には用がある」 「何の用だい?

    続きを読む
  17. 第17話

    「蘇貴妃をお通ししろ」 福海がそう告げた瞬間。寿康宮は、しんと静まり返った。静かすぎて、揺れる蝋燭の炎がパチパチと燃える音まで聞こえてくる。太后は、そっと目を閉じた。終わった。結局、止められなかった。 この一日、太后はありとあらゆる手を尽くした。まずは嬷嬷に書物を届けさせた。次に淑妃を御花園へ向かわせ、皇帝の足止めをさせた。さらに賢妃まで動員して、あれこれ理由をつけて時間を稼いだ。

    続きを読む
  18. 第18話

    偏殿。 扉がゆっくりと閉じられた。外の気配が、すっと遠のいていく。皇帝は上座に腰を下ろした。その向かいには、蘇貴妃の姿をした小満がいる。腕の中には、あの丸々と太った茶トラ猫。一人と一匹。向かい合ったまま、しばらく沈黙が続いた。 皇帝はふと、妙な感覚に襲われた。なぜだろう。目の前の光景が、どこか懐かしい。まるで昔。こうして自分の前に座り、真剣な顔でとんでもないことを言っていた誰かがいたような――。

    続きを読む
  19. 第19話

    「それで、朕に会いに来たのか?」 小満は背筋をぴんと伸ばした。 「うん。話し合いに来たの」 皇帝が、初めて興味を示した。 「話し合い?」 「そう」 小満は指を一本立てた。 「一つ目。もう太子殿下を怖がらせないこと」 二本目の指を立てる。 「二つ目。毎日のように太子殿下を呼びつけないこと」 そして三本目。 「三つ目は……」 小満はそこで言葉に詰まった。皇帝が静かに尋ねる。 「三つ目は?

    続きを読む
  20. 第20話

    翌日。東宮。 私は徹夜で朝廷内の人物相関図を整理していた。そこへ突然、勅命が届いた。 「陛下がお呼びです」 背筋が凍った。……まただ。最近、皇帝が私を呼ぶ頻度が日に日に増えている。いや、増えすぎている。もはや異常なレベルだ。 普通の皇帝なら――臣下を召し出す。奏書を確認する。政務を処理する。だが、うちの皇帝は違う。太子を呼ぶ。太子を呼ぶ。そしてまた太子を呼ぶ。 私は本気で疑い始めていた。

    続きを読む
  21. 第21話

    私は書斎に閉じこもり、紙の上に何度も筆を走らせていた。バラバラだった出来事が、まるで散らばった珠のように、一本の糸でつながっていく。 一つ目の珠。異世界に来た初日。皇帝と初めて対面した時、彼は私を長い間見つめていた。その時の私は、太子としての自分を見定めているのだと思っていた。でも今考えると――あの視線は、何かを確かめているようだった。 二つ目の珠。

    続きを読む
  22. 第22話

    深夜の東宮は、静寂に包まれていた。少年が地面に四つん這いになり、馬のように貴妃を背負っている。背中の上では、貴妃の甘えた声と楽しそうな笑い声が、細々と殿外まで漏れていた。 殿の外で夜番をしている宮人や宦官たちは、もうすっかりこの光景に慣れている。全員が俯き、息を殺し、決して顔を上げようとはしない。誰もがただこう思っていた。――太子殿下と貴妃娘娘が、また二人でふざけているのだ。

    続きを読む
  23. 第23話

    「……来い。」 彼はもう一度そう言った。声は平坦で、そこにどんな感情が込められているのか、まるで読み取れない。 私はゆっくりと床に手をつき、身体を起こした。長い間跪いていたせいで、膝は痺れている。立ち上がった瞬間、身体がわずかによろめいた。その瞬間。彼の指先がわずかに動いた。まるで反射的に私を支えようとしたように。けれど。彼はその手を、途中で止めた。

    続きを読む
  24. 第24話

    私の問いが落ちた瞬間。殿内に一瞬の静寂が広がった。蝋燭の火は静かに揺れている。時折、灯芯が小さく弾ける音だけが、やけに鮮明に響いた。 皇帝は目を伏せたまま、片腕でしっかりと腕の中の人物を抱いている。その胸にいるのは――豪華な貴妃の衣をまとい、六宮を魅了するほど美しい顔を持つ蘇貴妃。けれど、その中身は。まだ五歳になったばかりの、私たちの息子だった。 小満は眠気に勝てず、重そうにまぶたを閉じている。

    続きを読む
  25. 第25話

    「システムが、許さなかった。」 その一言で。私は完全に言葉を失った。 「最初の任務条件に、明確に禁止事項として書かれていた。」 「俺から先に正体を明かすことはできない。」 「お前たち自身が真実に気づき、自分の意思で俺のもとへ来るまで……俺は待つしかなかった。」 「……じゃあ、今は?」 私は彼の目をまっすぐ見つめた。一瞬たりとも見逃さないように。 「制限は解除されたの?」 彼はゆっくり手を伸ばした。

    続きを読む
  26. 第26話

    翌朝。空がようやく白み始めた頃。私は――蹴りで目を覚ました。小さな裸足が、錦の布団越しに私の腰を軽く蹴る。力は強くない。けれど、狙いだけは恐ろしく正確だった。 ぼんやりと目を開けると。目の前にあったのは、傾国の美貌を持つ蘇貴妃の顔だった。眉間にはわずかな皺。唇は少し尖っている。一体どんな夢を見ているのか、寝言を漏らしながら、もぞもぞと隣へ寝返りを打とうとしている。

    続きを読む
  27. 第27話

    「今日の朝議で、私は一つ決断をする。」 「何をするの?」 彼は私を見つめた。瞳に宿っていた優しさが少し消え、その代わりに、揺るぎない覚悟が浮かぶ。 「明日から、お前を私の隣――龍案の横に座らせ、朝政を見聞きさせる。」 私の瞳がわずかに揺れた。大周建国百三十七年。これまで、一人の太子が龍案の隣に座ることを許されたことは一度もない。あの机は。君臣の境。父子の境。

    続きを読む
  28. 第28話

    寿康宮へ駆けつけた時、殿の扉は固く閉ざされていた。二人の嬤嬤が入口を守っている。私が近づくと、彼女たちは顔を見合わせ、そのうちの一人が恭しく頭を下げた。 「殿下、少々お待ちくださいませ。太后様はただ今、陛下とお話しになっております。」 だが。私の足は止まらなかった。 「本宮はここで待つ。」 そう言いながら、私は扉の真正面に立った。もし中の者が扉を開けたなら。最初に目に入るのは、間違いなく私だ。

    続きを読む
  29. 第29話

    私は思わず賢妃を見た。彼女はそこに静かに座り、茶盞を手にしている。姿勢は優雅で、表情も穏やか。けれど。その視線は何度も私と小満の間を行き来していた。瞳の奥にある感情が、私には読み取れない。悪意ではない。むしろ……。不安? 皇帝が口を開いた。 「この件について、朕は把握している。」 「太子と貴妃の間に、礼を逸したことはない。」 「朝廷で広がっている噂についても、すでに福海に処理させた。」 「処理?

    続きを読む
  30. 第30話

    翌朝。空がまだ完全に明るくなる前に、福海が自ら東宮へ太子の朝服を届けに来た。黒を基調とした生地に、暗い金糸で雲紋があしらわれている。襟元には四本爪の蟒龍の刺繍。 私は銅鏡の前に立ち、宮人たちに冠を整えられ、帯を締められ、衣の皺を直されながら、鏡の中の十八歳の少年の顔を見つめていた。鋭い眉。澄んだ瞳。ようやく大人び始めた顎の輪郭。それでも、まだ少年らしい細さが残っている。

    続きを読む
  31. 第31話

    皇帝は「うむ」と短く返事をすると、工部の方へ視線を向けた。 「太子の言ったことに、間違いはないか?」 工部侍郎は覚悟を決めたように一歩前へ出る。 「陛下に申し上げます。確かに、今年は秋になってから雨が多く……」 「秋に雨が多いのは、今年だけの話ですか?」 私は彼の言葉を遮った。声は穏やかだった。けれど、殿内全員に届くほど、はっきりとしていた。 「三年前も、五年前も、十年前も。

    続きを読む
  32. 第32話

    頭がぼんやりしている時だった。突然、彼が顔を近づけてきた。額が私の額に触れる。鼻先が、私の鼻先を軽く擦る。 太子の身体は、彼よりずっと小さい。この距離を保つために、彼は少し腰を屈めている。それでも。絶対に離れようとはしなかった。 「ち……父上……」 彼の眉がわずかに寄る。 「へ……陛下……」 その瞬間。彼の手が、私の腰を軽くつねった。思わず、小さな声が漏れる。

    続きを読む
  33. 第33話

    私が口を開こうとした、その時だった。奥の間から、ドンという鈍い音が響いた。続いて、裸足で床を踏む小さな足音。パタ、パタ……。私たちは同時に振り返った。 寝殿の扉が勢いよく開く。そこに立っていたのは、目をこすりながら出てきた蘇貴妃だった。長い髪は乱れて肩に流れ、貴妃用の寝衣の帯は半分ほどほどけている。その絶世の美貌には、眠気と不満がありありと浮かんでいた。 「ママ、お話はもう終わったの?

    続きを読む
  34. 第34話

    朝。私は息苦しさで目を覚ました。目を開けると、目の前に絶世の美貌がどアップで迫っていた。蘇貴妃の長いまつ毛が、今にも私の鼻先をかすめそうだ。 小満はまるでタコのように私の身体に絡みついていた。片足は私の腰に乗り、両腕は私の首に巻きついている。しかも寝言まで言っていた。 「……ウルトラマン……変身……」 私は彼――いや、彼女をどかそうとした。肩に手を伸ばした瞬間。背後から、低い笑い声が響いた。

    続きを読む
  35. 第35話

    皇帝が毎晩、東宮に泊まっているという噂は、あっという間に後宮中へ広まった。私は何も知らなかった。昼食の時間になるまでは。 その時、淑妃がやって来た。手には食籠を持ち、まるで獲物を見つけた猫のような笑みを浮かべている。 「殿下」 彼女は丁寧に礼をした。けれど、その視線はずっと内殿の方へ向いている。 「貴妃娘娘は?

    続きを読む
  36. 第36話

    御書房の空気は、明らかに張り詰めていた。中へ入った瞬間、それが肌で分かる。賢妃が脇に控え、その前には三人の大臣が額を床につけて跪いていた。皇帝は龍案の奥に腰を下ろし、手の中で数珠をゆっくりと回している。その眼差しは、氷のように冷たかった。 「来たか」 俺に気づくと、皇帝は視線を上げる。だが、その声音だけは不思議なくらい柔らかかった。 「こちらへ」 俺は静かに彼の隣へ歩み寄る。その瞬間。

    続きを読む
  37. 第37話

    皇太子が監国を任されるという知らせが広まった途端――東宮の門は、まるで市が立ったかのような騒ぎになった。祝いの品を持ってくる者。挨拶に来る者。腹の内を探りに来る者。次から次へと押しかけてきて、門前は途切れることがなかった。 午前中いっぱい応対を続けた結果、笑いすぎて頬が引きつる始末。最後には「体調不良」と理由をつけ、誰にも会わないことにした。 午後になると、小満が寿康宮から戻ってきた。

    続きを読む
  38. 第38話

    太后はしばらく彼を見つめていた。そして最後には、小さく手を振る。まるで一瞬で十歳も老け込んでしまったかのような、そんな疲れた仕草だった。 「……もうよい。」 「食事にしましょう。」 その後の食卓は、何を口にしても味がしなかった。 東宮へ戻る道すがら。歩き疲れた小満を、皇帝は黙って背負っていた。小満は彼の肩に頬を預け、今にも眠ってしまいそうな声で小さくあくびをする。

    続きを読む
  39. 第39話

    北疆から急報が届いた。突厥軍が国境を突破。わずか数日のうちに、三つの城が陥落したという。朝廷は一気に騒然となった。武断派は「即刻出兵すべし」と声を張り上げ、講和派は「まずは和議を」と食い下がる。戸部は「軍費が足りませぬ」と泣き言を並べ、兵部は「兵はすでに限界です」と頭を抱える。 龍案の脇に座る俺は、その光景を眺めながら頭痛を覚えていた。……うるさい。誰一人、結論を出そうとしていない。

    続きを読む
  40. 第40話

    出征の日――空はどこまでも青く、雲ひとつなかった。皇帝は漆黒の鎧をまとい、愛馬の上に凛然と座している。その背後には、十万の大軍。旗が風を裂き、甲冑が朝日に鈍く輝いていた。 俺は皇太子の朝服をまとい、城門の楼閣の上からその光景を見下ろしていた。隣には、小満。貴妃の宮装を身にまとい、風に裾を大きくはためかせている。小満は目を輝かせながら、小さく呟いた。 「パパ、かっこいい……」 「……うん。

    続きを読む
  41. 第41話

    東宮へ戻る道すがら――俺の頭の中は、ずっと福海の後ろ姿でいっぱいだった。あの老宦官は、この三か月ずっと皇帝の側に仕えてきた。どこへ行くにも付き従い、身の回りを完璧に整え、忠誠心の塊のような男だった。皇帝が親征する以上、本来なら御前総管である彼も軍に同行するはずだ。それなのに。彼は出征に付き従わなかった。それどころか、わざわざ後宮へ向かっていた。……後宮に、命を懸けてまで戻る理由があるというのか。

    続きを読む
  42. 第42話

    俺は、賢妃本人に会いに行くことを決めた。だが、こちらが動くより早く――賢妃の方から東宮へやって来た。侍女は連れていない。一人きりで食籠を提げ、東宮の門前に立っていた。その顔色は、ひどく青白い。 「殿下……。」 「少し、お時間をいただけますでしょうか。」 俺は無言で彼女を中へ通し、扉を閉めた。 「……俺が君を訪ねるつもりだったと知っていたのか?」 賢妃は苦く笑う。

    続きを読む
  43. 第43話

    小満が東宮へ連れて来られた時、まだ口には食べかけの砂糖餅をくわえていた。 「ママ、どうしたの?」 「何でもないわ。」 私は小満を抱き上げ、その小さな身体をぎゅっと抱きしめる。 「今夜はママと一緒に寝ようね。」 「じゃあ、パパは?」 「パパは戦ってるの。」 「勝った?」 「……もうすぐよ。」 小満は首をかしげ、そっと私の頬に触れた。 「ママ、泣いてる?」 私は思わず自分の顔を触る。

    続きを読む
  44. 第44話

    寿康宮は夜更けだというのに、煌々と灯がともっていた。私は剣を手にし、小満の手をしっかり握る。その後ろには賢妃と影七。……とはいえ、「斬り込んだ」というほどではない。福海が捕らえられたことで禁軍は指揮系統を失い、その大半があっさりと降伏していた。 殿内では、皇太后が数珠を指で繰っている。その傍らには、一人の中年の男。蟒袍に玉冠をまとい、その顔立ちは皇帝とどこか二、三分ほど似ていた。――睿王。

    続きを読む
  45. 第45話

    その後の七日間、私は息つく暇もなかった。睿王派の粛清、城門と城防の掌握、朝臣たちの懐柔、そして山積みの奏状。毎日眠れるのは二時間ほど。濃い茶だけが、私の命綱だった。 小満は毎日私についてきて、東宮の書斎で積み木遊びをしていた。私が奏状を読んでいる横で遊び、時々、お菓子を一つ差し出してくる。 「ママ、痩せたね。」 「そう?」 「うん。顔がシュッとして、ひまわりの種みたい。」 私は思わず頬に触れた。

    続きを読む
  46. 第46話

    皇帝は、それから半月もの間、寝台で療養することになった。その半月、私は昼は監国として政務を執り、夜はずっと彼の枕元にいた。小満は私たち二人の真ん中で眠る。まるで小さな湯たんぽみたいに、ぽかぽかと温かかった。 太医の診立てでは、 「矢傷があと一寸でもずれていたら、神でも助けられませんでした」 ――ということだった。その報告を聞いた私は、部屋へ戻るなり、睿王に毒酒を賜るよう命じた。

    続きを読む
  47. 第47話

    皇帝がようやく傷も癒え、自分の足で歩けるようになったその日。京の都には、この冬初めての雪が降った。朝、目を覚ますと――隣の布団が空だった。小満の姿もない。布団はすっかり冷え切っていて、二人ともかなり前に起きたらしい。 「影七。」 私が声をかけると、梁の上から黒い影がふわりと舞い降りてきた。その手には、金箔を散らした立派な便箋が一枚。 「陛下から殿下へのお手紙です。」 私は封を切る。

    続きを読む
  48. 第48話

    「見られたら何だ?」 彼はまったく動じない。 「俺が自分の嫁を口説いてるだけだ。当然のことだろ?」 顔が一気に熱くなる。私は慌てて彼の腕を引っ張った。すると彼はその勢いのまま立ち上がり、私を胸元へ引き寄せる。ばさり、と大きな外套が私たち二人を包み込み、一枚のマントの中へ閉じ込められた。 「寒いか?」 「寒くない。」 「強がるな。」 彼は少し身をかがめ、鼻先を私の鼻へそっと擦り寄せる。

    続きを読む
  49. 第49話

    ――結果から言うと。私の嫌な予感は、大当たりだった。 翌朝。私は小満を迎えに寿康宮へ向かった。扉を開けた瞬間、その場の空気に固まる。太后様は上座に座り、こめかみを押さえながら疲れ切った表情を浮かべていた。淑妃と賢妃は床に正座して頭を下げている。徳妃は部屋の隅に小さく縮こまり、手には一冊の冊子をしっかり握り締めていた。 そして――小満だけが。

    続きを読む
  50. 第50話

    陛下が自ら料理をする――。その知らせは、あっという間に後宮中を駆け巡った。御膳房では料理人たちが一斉に土下座し、「陛下が不正を調べに来られた」と本気で震え上がった。ところが、「ただ厨房を借りたいだけだ」と聞いた料理長は、その場で泣き崩れた。 「もし陛下に何かあれば……我ら一族九族でも足りませぬ……!」 陛下はため息をつき、全員を厨房から追い出した。

    続きを読む
  51. 第51話

    あの黒焦げ寸前の角煮は、結局どうにか完成した。見た目は最悪。味も……なんとか食べられる程度。 小満はひと口かじると、顔をしかめながら飲み込んだ。それでも親指を立てる。 「お父さん。御膳房には全然かなわないけど、ぼくは好き!」 陛下は嬉しそうに笑い、小満の頭を優しく撫でた。私も一切れ箸でつまんで口へ運ぶ。もぐもぐと噛んでから、一言。 「塩、入れすぎ。」 「次は減らす。」 「……まだ次があるの?

    続きを読む
  52. 第52話

    旧正月まで、あと二日。小満は東宮で三つ目の枕を投げ飛ばした。 「お正月なんてやだー!」 貴妃の衣を着たまま胡座をかき、裾を花みたいに広げてふくれっ面になる。 「紅白もないし! 花火もないし! ウルトラマンもいない!」 私は落ちた枕を拾い、ぽんぽんと叩いてから言った。 「花火ならあるよ。昨夜から御膳房で準備してる。」 「じゃあウルトラマンは?」 「……それは、ない。」 「じゃあ年越しご飯も食べない!

    続きを読む
  53. 第53話

    西華門。俺は青みがかった直垂に着替え、髪を男の髷にまとめた。鏡を見れば、科挙に受かったばかりの若い書生そのものだ。 小満は桃色の袄裙に白狐の毛皮を羽織り、まるで年賀絵から飛び出してきた福々しい子どもみたい。一番ひどいのは皇帝だった。灰色の木綿の着物に、使い古した帯。髪もわざと少し乱していて、どう見ても落ちぶれた浪人風。……なのに。あの目だけは隠せない。人混みに立っていても、ひと目で目を奪われる。

    続きを読む
  54. 第54話

    「どうぞ」 僕がそう促すと、青年は扇子を広げて微笑んだ。 「では、一問。『春になると咲き、夏には散る。人の心にも宿るものは?』」 ……なるほど。なぞなぞというより、とんちに近い。少し考え込んでいると、皇帝が横からさらりと言った。 「恋(こい)だ」 青年が目を丸くする。 「え?」 「春に芽吹き、人の心にも宿る。答えは"恋"だろう」 青年は思わず扇子を止めた。

    続きを読む
  55. 第55話

    朝議なんて、今日は地獄だった。眠い。とにかく眠い。昨夜、あの男がまた東宮に忍び込んできた。 「帳簿を合わせよう」 なんて真面目そうな顔で言っておきながら、帳簿なんて二ページもめくらないうちに、手は肩から腰へ。三回蹴飛ばしてもびくともしない。結局、「陛下、もう丑三つでございます」と外から福海の声がして、ようやく渋々帰っていった。帰り際には耳元で、 「明日の朝議、居眠りするなよ」 なんて囁いて。

    続きを読む
  56. 第56話

    七日。——丸々七日間、私は彼に会っていない。東宮は、ついこの前まで人が絶えなかったのが嘘みたいに静まり返っていた。あれほど媚びを売ってきた大臣たちは、今では私を見ると遠回りをする。御膳房から届く食事ですら、運ばれてきた時にはもう冷めかけていた。 その代わり――後宮はやけに賑やかだった。北疆から郡主が入京したらしい。承乾宮に迎えられ、絶世の美女で、歌も舞も一流。

    続きを読む
  57. 第57話

    酒を三壺も飲んだ。この太子の身体は、とにかく酒に弱い。本来なら三杯で潰れる程度なのに、意地になって三壺も空けたせいで、頭の中は綿でも詰められたみたいにふわふわしていた。視界は二重になり、月まで二つ見える。その時だった。屋根の向こうで瓦がかすかに鳴る。顔を向けると、鮮やかな紅色が塀を軽やかに飛び越えてきた。猫のように音もなく着地する。

    続きを読む
  58. 第58話

    太子の身体は若くて、驚くほど敏感だった。身体がびくりと震える。思わず喉の奥から小さな声が漏れてしまい、恥ずかしくて、情けなくて、胸がいっぱいになる。彼はぴたりと動きを止めた。額を私の額へ寄せ、荒い息を整えながら囁く。 「……声を出すな」 掠れた声だった。 「これ以上聞かせたら、本当に我慢できなくなる」 「あなた……」 「分かってる」 彼は苦く笑う。 「場所も悪い。身体も悪い。

    続きを読む
  59. 第59話

    私を弾劾する上奏文が、山のように積み上がっていた。「監国中に専横を極めた」。「東宮では夜ごと赤い光が立ち昇り、妖気が満ちている」。「男寵を囲い、宮中の風紀を乱した」。……最後の一文を読んだ瞬間、思わずまぶたがぴくりと跳ねた。というのも、その「男寵」として書かれていた名前が――皇帝陛下だったからだ。……宰相は、完全に狂っている。もう私一人を狙っているんじゃない。

    続きを読む
  60. 第60話

    東宮に閉じ込められて、三日。影七の姿は消えた。隠密たちも全員引き揚げられ、賢妃からの伝言さえ届かない。東宮はまるで、美しく飾られた墓だった。四角く囲われ、外の風ひとつ入ってこない。 四日目の夜。小満が熱を出した。寝台の上で身体を丸め、蘇貴妃の絶世の美貌は熱で真っ赤に染まり、うわ言を繰り返している。

    続きを読む
  61. 第61話

    矢が玄甲を貫き、肉を裂く音が――喧騒の中でも、やけにはっきりと耳に届いた。陛下は低く息を漏らし、その場に片膝をつく。それでも腕の中では、小満を決して離そうとしなかった。 「パパ!」 小満は彼の背中に触れ、その手についた血を見て震え出す。 「血……いっぱい……!」 私はその場に膝をつき、傷口を必死に押さえた。けれど、血は指の隙間から次々と溢れ出し、信じられないほど熱かった。 「お願い……!

    続きを読む
  62. 第62話

    陛下が龍床に伏してから、七日が過ぎた。 七日目の夜。彼は高熱を出した。身体は炭のように熱く、意識も朦朧としている。うわ言のように私の名前を呼び、小満の名前を呼び、かと思えば前世の記憶まで混ざり始めた。 「……企画書が、まだ直ってない……」 「……保育園のお迎え、今日は誰が行くんだ……」 私は彼の手を握ったまま、その夜、一度も離さなかった。太医の診立てでは、矢傷そのものは深くない。

    続きを読む
  63. 第63話

    彼は目を丸く見開いた。その瞳には、すぐ目の前にいる私の顔が映っている。口移しした薬は半分だけ飲み込まれ、残りは口の端からこぼれて、顎を伝い首筋へ流れていった。慌てて拭おうとした瞬間、彼に手首を掴まれる。 「……何してる?」 声はひどく掠れているのに、その目だけは妙に輝いていた。 「薬。」 「こんな飲ませ方?」 「起きないんだから仕方ないでしょ。」 耳まで熱くなりながら、私は強がる。

    続きを読む
  64. 第64話

    翌日の朝議。私は太子の朝服をまとい、龍案の脇に腰を下ろした。下に並ぶ文武百官の視線が、昨日までとは明らかに違っていた。そこにあったのは、これまでのような警戒や取り入りではない。値踏みするような、複雑な眼差しだった。丞相は死に、陛下は重傷を負い、太子が監国する――。朝廷という場所で生き抜いてきた古狸たちは、皆、新たな主を見極めようとしている。 兵部尚書が一歩前へ進み出た。 「殿下。

    続きを読む
  65. 第65話

    夜更けまで上奏文に目を通していたら、気づけばもう丑三つ時だった。こめかみを揉みながら寝殿へ戻る途中、御花園を通りかかったその時――突然、後ろから口を塞がれた。反射的に肘を打ち込む。だが、その一撃はあっさり受け流された。ふわりと鼻先をかすめたのは、どこか懐かしい薬草の香りと、龍涎香。 「……私だ。」 振り返る。梅の木の下に立っていたのは、皇帝だった。黒い外套を羽織り、顔色はまだ青白い。

    続きを読む
  66. 第66話

    丞相が失脚してからというもの、朝廷は半分近く空席になってしまった。私は吏部から新たに届けられた官員名簿を睨みつけながら、割れそうな頭を押さえる。空いた役職は三十七。半月かけて補充しても、まだ十二の席が埋まらない。人材がいないわけじゃない。送られてくる連中が問題なのだ。年を取りすぎて目もおぼつかない者。頭の中まで空っぽな者。一見できそうに見えて、中身は真っ黒な腹黒ばかり。 「これは却下。

    続きを読む
  67. 第67話

    私が寝殿へ乗り込んだ時。皇帝は――寝台にもたれて、のんきに瓜子をポリポリ食べていた。……瓜子を。その隣では、小満があぐらをかいて『論語』を広げ、一生懸命音読している。 「子曰く、学びて時にこれを習う、また説ばしからずや……」 彼女は顔を上げた。 「お父さん、この意味って何?」 皇帝は瓜子の殻を器用に吐き出しながら答える。 「つまりだな。」 「お母さんに宿題しろと言われたら、笑顔で『はい!

    続きを読む
  68. 第68話

    朝廷は、思っていたよりずっと早く落ち着きを取り戻した。賢妃の父である将軍をはじめとする武官たちと、地方から抜擢した寒門出身の官僚たちのおかげで、わずか半月で六部の空席はすべて埋まった。新任の役人たちは気合十分で、前任者以上に精力的に働いている。私は今日も玉案の横に座り、彼らの報告を聞きながら、ふと前世でプロジェクト会議を開いていた頃を思い出していた。 「殿下。

    続きを読む
  69. 第69話

    春闈の合格発表の日。突然、頭の中で聞き慣れたシステム音が鳴り響いた。 【ピンッ! 全ミッションの達成を確認しました。】 【ミッション1:家族三人の再会 達成。】 【ミッション2:一年間生存 達成。】 【隠しミッション:皇位の安定、および朝政の安定化 達成。】 【報酬:五千万元を元の世界の口座へ振り込みました。】 【帰還ゲートを開放しました。いつでも元の世界へ帰還できます。

    続きを読む
  70. 第70話

    旅立ちの日。私たちは、誰にも知らせなかった。見送りに来てもらったのは、皇太后、賢妃、淑妃、そして福海だけ。寿康宮には、どこか静かな空気が流れていた。皇太后は目を赤くしながら、小満の腕に大きな包みを押しつける。 「道中で食べなさい」 少し声を詰まらせ、それでも笑おうとして続けた。 「向こうへ帰っても……哀家のことを忘れないでおくれ」 「忘れないよ!

    続きを読む
  71. 第71話

    目を開けると、見慣れたシャンデリア、見慣れた天井、そして見慣れた――コーヒーの香りが鼻をくすぐった。 「起きた?」 ベッドの脇には夫が座っていた。前世で着ていたあのグレーのルームウェア姿のまま、コーヒーカップを片手に私を見つめている。転生前と何一つ変わらない。三十歳の顔。目尻の小さなほくろ。少し悪そうに笑う、その笑顔まで。 「……戻ってきたの?

    続きを読む

こちらもおすすめ