
あらすじ
二十年、男を偽ってきた。
帝都中が、私を生粋の男だと思っている。
私は桐生昭。大周国の北鎮侯爵。
胸を潰し、肩を盛り、低い声で罵る。
朝堂では八年、宿敵の鷹司蓮といがみ合ってきた。
墨に糞を混ぜ、弾劾し合う。それだけのはずだった。
冬至の夜。御苑の築山で、四五歳の団子が裾を引く。
「母上!!」
―― Hawk。違う。俺は男だ。
だがその子は、舌の下の砂糖漬けも、鎖骨の三日月の痣も、知っていた。
名は鷹司蓮昭。宿敵の子で、三年後から来たという。
「母上が父上に、一昼夜くっついてくれないと、ぼくは消える」
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第1話
私の名は桐生昭。大周国の北鎮侯爵だ。
この名を二十年背負ってきたせいで、帝都中が私を――拳一つで壮漢を三人殴り殺せる、生粋の男だと思っている。知っているのは私だけだ。この身体に入っているのは、女だと。
父は北境の戦で死に、母は難産で血を流し尽くし、臨終に私を一目見ただけだった。老番頭の福爺は、産着の私を抱えたまま霊前に跪き、一晩中考え込んだ。侯爵家に跡取りがいなければ、決まりどおり爵位は召し上げられる。三百人を超える眷属は、一夜にして俎板の鯉だ。
だから翌日、侯爵家は対外的にこう発表した。夫人が、若侯爵を産んだ、と。
それ以来、私の人生は三つの作業になった。胸を潰すこと。肩を盛ること。低い声で罵ること。
それから、宿敵――定国公爵家の嫡男、鷹司蓮と、朝堂でいがみ合うこと。
あいつとは、まる八年もやり合っている。
やつが学院の首席を奪えば、私は墨に犬の糞を混ぜた。やつが私を「兵権を笠に着て、君をないがしろにしている」と弾劾すれば、私は「寵を笠に着て、士の風を汚している」と弾劾し返した。
帝都中が、いつか私たちが朱雀大路で果たし合う日に賭けている。賭けは三年続き、胴元は盆いっぱい稼いだ。
――今年の冬至の宴で、事が起きた。
あの夜、私は二杯余計に飲んだ。酒が欲しかったのではない。老宰相の西園寺嵩が杯を持って近寄り、にこにこと「桐生侯爵、親が虎なら子も虎」と言ったからだ。その目は、毒蛇が身体を這い回るようだった。悪寒を酒で押さえ込んだ。
御苑の築山の陰に隠れ、襟を解いて息をつく。冬の夜風が襟元へ流れ込み、蛇に這われたような粘つきを、いくらか吹き散らしてくれた。
そのとき、裾を引かれた。
北境で長年、命のやり取りをしてきた身だ。頭より先に手が動く。腰の短刀へ手が伸び――見下ろした瞬間、刀は抜けず、先に人が固まった。
四五歳の小さな塊がしゃがんでいる。白玉団子みたいに白くて柔らかい。油紙の包みを死ぬほど抱きしめ、黒葡萄のような大きな目で、私を見上げていた。
御苑は三歩に一衛兵、五歩に一見張りだ。乳飲み子が、どうやって入ってきた。
考え終わる前に、その子は喉を開いた。脆い雷が落ちる。
「母上!!」
魂が飛びかけた。飛びかかり、口を塞ぎ、声を殺して吼える。
「でたらめを言うな! 俺は男だ!」
小さな塊は足をばたつかせ、涙がすぐに溢れた。嚇してしまったと気づき、慌てて手を半分緩める。その子は大きく息を吸い、しゃくり上げながら、口をへの字に曲げた。
「母上だよ。北鎮侯爵の桐生昭……ぼくは鷹司蓮昭。父上は鷹司蓮。三年後から、戻ってきたんだ」
頭の中で、何かが鳴った。
鷹司蓮昭。鷹司蓮の蓮、桐生昭の昭。
「たわ言を!」
小さな肩を掴み、わざと声を落として脅す。
「誰に遣わされた。この侯爵を陥れるつもりか。言え。西園寺の老いぼれか?」
このご時世、北鎮侯爵を陥れる手は千差万別だ。隠し子を押し込んで母と呼ばせるのは、正直、初めてだった。
「誰にも遣わされてない!」
団子はしゃくり上げて泣き、突然つま先立ちで、私の首に抱きついた。乳の甘い匂いが鼻を衝く。
全身が固まった。二十年、福爺以外で、こんなに近い人間はいなかった。
耳元で、しゃくり上げながら続ける。
「母上、苦いの、一番嫌い。薬を飲むときは、いつも舌の下に砂糖漬けを二粒隠して、飲んだあと冷たい水で押し流す……七つのとき、北境で左腕を折った。骨を接いだときは一声も泣かなくて、帰って布団の中で半晩泣いた……右の鎖骨の下に、三日月の痣がある。父上がそこをキスするとき、すごく優しかったんだよ……」
待て。
前半はどうにかなる。後半は、何を言い出した。
雷に打たれたようだった。
砂糖漬け。折れた腕。痣。
どれも、腹の底に腐らせておいた秘密だ。ことに痣は――自分でも女々しいと思って、入浴に人を付けず、普段は粉で隠し、一日も欠かしたことがない。
この世に、知っている人間などいるはずがない。
よもや――
「三年後」
団子の声が、急にひどく震えた。小さな手が襟を死ぬほど掴む。
「朝廷の鷹犬が陥れて、母上が男を偽っていたことがバレて、皇帝を欺いた罪。侯爵家も、定国公爵家も、あいついで一族誅戮された」
支離滅裂だ。だが一字一字が氷の錐で、頭頂から下へ刺さってくる。
「だからぼくは、三年後から戻ってきた。母上たちを助けるために」
顔を上げ、睫毛に涙を乗せたまま言う。
「母上。ぼくと父上の赤い糸が、切れかけている。ぼく、消えちゃう。母上が父上に近づいて、一昼夜そばにいてくれないと、ぼくはこの世に身体を結べない……」
口を開こうとした瞬間、余光が捉えた。
築山の向こう、影の中を、衣の端が一閃した。
人だ。
暗がりに蹲り、今のすべてを、聞き去った者がいる。
目次
12 話
第1話
私の名は桐生昭。大周国の北鎮侯爵だ。 この名を二十年背負ってきたせいで、帝都中が私を――拳一つで壮漢を三人殴り殺せる、生粋の男だと思っている。知っているのは私だけだ。この身体に入っているのは、女だと。 父は北境の戦で死に、母は難産で血を流し尽くし、臨終に私を一目見ただけだった。老番頭の福爺は、産着の私を抱えたまま霊前に跪き、一晩中考え込んだ。
続きを読む第2話
私は小さな団子を懐へ押し込み、外套で包み、同時にもう一方の手で刀の柄を握った。 「声を出すな」 気息だけで言う。築山の影は、恐ろしく静まっていた。 十息ほど経って、野良猫が一匹「にゃあ」と飛び出し、ぱたぱたと遠ざかる。衣の端は、もうなかった。 猫を見間違えたのか。それとも、あの者は音もなく退いたのか。冬至の宴は賓客が数百、御苑は四方八方に通じている。誰であれ、あの耳であり得た。
続きを読む第3話
翌日の朝議。 正殿に文武が列する。私は破天荒にも、武官の列の最前列に立たなかった。のろのろ、あとについて、文官の筆頭――鷹司蓮の脇へ寄った。 殿中の視線が、いっせいに集まる。 監察の長は笏を逆さに持っていた。兵部卿は目を鼻に、鼻を心に落とし、肩を激しく揺らしている。玉座の傍らの内侍頭が、わざとらしく三度咳き込み、ようやく殿内のどよめきを押さえた。 宿敵が並ぶのは、太陽が西から出るのと同じだ。
続きを読む第4話
朝議が散っても、面倒は始まったばかりだった。 一昼夜――二十四時間。朝議から下がるまで、せいぜい四時間。残り二十時間、私は鷹司蓮から寸分離れずに付く必要がある。 八年、獲物として私を見てきた人間に、寸分離れず、だ。 正殿の外、白玉の階で、やつを塞いだ。 「鷹司公子」 拳を合わせ、作り笑いを浮かべる。 「南境の防備を、陛下が急かしておられる。
続きを読む第5話
扉に鍵が落ちた。灯芯がぱちぱちと爆ぜる。 私と鷹司蓮のあいだには、書案一枚の距離があった。やつは光の中に立ち、私は半身を影に沈めていた。懐の温玉は驚くほど熱い。だが計時は、まだ十六時間足りない。 「鷹司公子の冗談でしょう」 自分の声が、乾いて硬い。 「この侯爵に、目的など」 「目的は、大きい」 書案に手をつき、身を屈めて顔を寄せる。鳳眸に、揺れる灯が二つ映っていた。
続きを読む第6話
蓮昭の身体は結べた。だが私の心は、日に日に高く吊られていく。 鷹司蓮の、あの「八年描いた」が原因だ。 動かぬ顔で調べ始めた。調べて調べて、冷や汗だけが残った。 八年前、私と鷹司蓮は帝都学院で机を並べていた。その年の上巳、学院が休みになり、私はこっそり裏山の温泉へ忍び込んだ。帝都で唯一、「北鎮侯爵」を知る者のいない場所だ。胸の布を解き、まる一時辰――今の二時間は浸かった。
続きを読む第7話
下がった馬車の中、私はやつを死ぬほど睨んだ。 「鷹司、気が触れたのか」 「ああ。八年、触れている」 目を閉じて息を養い、さらりと答える。 「侯爵家に妹はいない!」 「三ヶ月後にはいる」 目を開き、鳳眸の底は計り知れない算段だ。 「北境軍には、戦死した将の遺児が、行き場もなく溢れている。桐生の姓を持つ烈属を一軒見つけ、義妹にする。族譜は私が作り、人证物証も私が揃える。
続きを読む第8話
「いつのことだ」 自分の声が、震えているのが聞こえた。 「今夜、西園寺邸で門生と密会していた。私の人間が紛れ、写してきた」 鷹司蓮は紙を掌へ握る。 「この素描を描いた男は、三ヶ月前まで北境軍の傷兵営の画師だった。昭、お前は去年、北境で傷を負っていないか」 頭の中に、去年の秋が閃く。 北境の秋の調練。馬から落ち、肩甲骨が裂けた。
続きを読む第9話
それから二ヶ月、帝都の水面下は、暗い流れが荒れた。 表向きは、すべてが元のままだ。 北鎮侯爵と定国公爵家の嫡男は、相変わらず朝堂で互いの足を引っ張り、監察の弾劾文は三日にあげず飛ぶ。 西園寺の「賜婚」は、鷹司蓮の「侯爵家の妹を娶る」一手で掻き乱された。陛下は病み、皇太后は「たまたま」その数日「ご体調が優れず」門を閉じ、話はうやむやになった。 裏では、三条の線が同時に伸びた。 第一条。
続きを読む第10話
祭天の大典の七日手前、三つのことが起きた。 第一。陛下の病が、「重く」なった。 宮の医局が夜通し入宮し、皇太后宮は対外的に皇太后が「危篤」と称し、毎日の脈取りすら止めた。 朝堂は人心が揺れ、西園寺一党の官が頻繁に門を行き来し、帝都三営の調防が、こっそり二度入れ替わった。 第二。蓮昭が病んだ。 高熱が引かず、うわごとを言う。太医には見当がつかず、福爺は口角に火ぶくれを作った。
続きを読む第11話
時間は、引き伸ばされたようだった。 弩の矢が空を裂くのが見える。鷹司蓮の緋の袂が空中で開くのが見える。振り返る横顔――あの顔に慌てはない。むしろ、少し、荷を下ろしたような笑みさえある。 祭壇の下の、私を見ている。 口の形が言った。 「昭、信じろ」 ――ぷっ。 矢が肩へ入る音は、鈍い刃が肉を割くように、低い。 鷹司蓮は揺れた。倒れはしなかった。
続きを読む第12話
三日後、侯爵邸の大婚。 紅の装いが十里、満城が轟いた。 蓮昭は北境から駆け戻り、花童で、婚書を抱えて一番前を歩く。小さな顔が、火の中へ飛び込むほど真剣だ。 式の最中、役が高く唱える。「夫婦、向かい合って礼」。私と鷹司蓮が向かい合って立つ。 やつは真紅の礼装、肩の傷はまだ癒えず、背だけが真っ直ぐだ。揺れる紅燭の向こうで私を見、突然、口の形で四字を言った。 読めた。
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