
あらすじ
宿敵が事故で「記憶喪失」した。
私を見るなり、計算どおりの茫然を浮かべて言う。
「……誰?」
歩けない。頭の中で、別の声が爆ぜる。
【嫁、行くな。頼む。もうやめる。でもシステムが許さない。】
口では「覚えがない」。
心では、十五の年に作ったトマトと牛肉の煮込みを、十三年想い続けている。
私たちは二十八年の宿敵だ。
幼稚園の花マルから、忘年会の二千人の前まで、勝ち負けしか知らない。
なのに、緊急連絡先の一番上は、私の名前だった。
嘘をつくたび、本音が強制中継される。
本当のことを言うときだけ、静かになる。
暴かない。
お前が記憶喪失を演じるなら、私は攻略される側を演じる。
聞いたろ、久我迅。
本当に好きなのか。勝ちたいだけなのか。
現代ロマンス。宿敵。偽りの記憶喪失。心の声。幼なじみ。嘘発見。同居。
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第1話
宿敵が事故で「記憶喪失」した。
私を見るなり、眉をひそめて、計算どおりの茫然を浮かべる。
「……誰?」
背を向けて歩き出そうとした瞬間、頭の中で声が爆ぜた。
【嫁、行くな。頼む。もうやめる。でもシステムが許さない。】
口ではこう言った。
「行け。世話なんて要らない。」
心の中では。
【嘘つけ! 嫁のトマトと牛肉の煮込み、十三年も想い続けてるんだぞ。】
「お前のことは覚えてない。」
【こんなこと、よく言えたな!? 高校二年のとき、あいつが他人に書いたラブレターを俺が横取りした。ほうき持って廊下を三本追いかけてきたんだぞ! 覚えてない、だと!?】
私は無表情のまま、あいつの目の前で電話をかけた。
「もしもし、岡崎社長。この前のデート、受けます。」
迅は跳ね起きて、瞳孔が地震を起こした。
【???!!!】
「……誰にかけてる。」
私は笑った。
「記憶、なくしたんじゃなかったっけ。やきもち?」 —— 久我迅が記憶喪失した。
電話がかかってきたとき、私は患者を縫っていた。手元は、一ミリも揺れなかった。
看護師がドアから顔を出す。
「樫野先生、救急に事故の患者が入ってます。命に別状はないんですけど、頭がぼんやりしてて、家族の連絡先が言えないんです。携帯を見たら、緊急連絡先の一番上が先生だったんで、見に来てくれませんか」
手袋を外して出た。
緊急連絡先の一番上:樫野想。
いつ書いたのか、私は知らない。
救急の経過観察室を開けると、迅はベッドに座っていた。額にガーゼ、スーツの上着は擦れて破れている。みすぼらしいわりに、顔は相変わらず殴りたくなる。
とくに、私を見た瞬間だった。眉をひそめて、計算どおりの茫然を浮かべる。
「……誰?」
ドアノブを握ったまま、足が止まった。
私たちは二十八年の知り合いだ。幼稚園で花マルシールを奪い合ったところから、今に至る。
あいつのほうは児童会長を奪い、私のほうはあいつの推薦入試の推薦書を破った。去年、あいつの会社の忘年会では、二千人の前で私のことを「嫁の貰い手がないのも当然だ」と言った。
その男が、今、誰、と聞いてくる。
口を開いて怒鳴ろうとした瞬間、頭の中で声が爆ぜた。
耳から入ってきたんじゃない。脳の芯で直接鳴る音だ。大きくて、凄まじくて、泣きそうな声まで乗っている——
【来た来た来た。落ち着け、久我迅。第一段階、茫然。第二段階、弱々しく。入ってきたら三語だけ。誰、だ。】
【……なんで黙ってる。マニュアルだと、ここで目を赤くして飛びついてくるはずなんだが!】
手元のカルテを見て、ベッドの男を見る。無垢な顔に、焦点の合わない目。
軽度の脳震盪。一泊観察。
歩み寄って身を屈め、あいつの目を見て、一語ずつ言った。
「迅。私は樫野想。」
瞳孔が散って、首を振る。
「覚えてない。」
頭の中の声が、すぐ咆哮を始めた。
【こんなこと、よく言えたな!? 高校二年のとき、あいつが他人に書いたラブレターを俺が横取りした。ほうき持って廊下を三本追いかけてきたんだぞ! 覚えてない、だと!?】
【我慢だ。お前は記憶喪失者だ。記憶喪失者は落ち着いていろ。】
身を起こして、無表情で言った。
「そう。覚えてないんだ。ちょうどいい、私も覚えてない。医療費は自分で払って。じゃあ」
踵を返す。
後ろから、弱々しい呼び声がした。
「待って——お姉さん、ちょっと待って。」
頭の中は花火だ。
【行った!? 本当に行った!? 第三段階『不憫になって世話をする』は!? このクソマニュアル、俺をはめやがった!】
ドアのところで足を止め、振り返らない。
「まだ何か。」
二秒黙って、次の声は羽根みたいに軽く、計算どおりだった。
「誰のことも思い出せない。お前だけは……」少し間を置いて、「見てると、わけもなく懐かしい。」
観察室が一気に静まった。
事情を知らない人間なら、ここで折れる。
残念ながら私には、あいつの独白が聞こえている。しかも今、絶叫ボリュームでループ再生中だ。
【成功! マニュアル第一条:記憶喪失者は、唯一懐かしい相手に依存する! 固まってる! 本当に固まってる! 樫野想、お前にも今日があるんだな!】
ゆっくり振り返った。
迅はベッドのヘッドに寄りかかっている。朝日が顔に当たって、睫毛の影が長い。その脆そうな表情は……やめよう。言葉にすると、先に自分が鳥肌だ。
あいつの顔を見て、ふっと笑った。
「いいよ」と言った。「久我社長が記憶喪失で、誰も面倒を見ないなら——」
目が輝く。
「——勝手に生きて、勝手に消えな。」
ドアを開けて、石化していく心の声の中を、まっすぐ出ていった。
【樫野想!!!】
【心がない! 医者のくせに見殺しにするのか!】
【……でも、笑った。今、俺に笑ったよな。】
【終わった。あいつが笑った時点で、この局、負けてる。】
目次
13 話
第1話
宿敵が事故で「記憶喪失」した。 私を見るなり、眉をひそめて、計算どおりの茫然を浮かべる。 「……誰?」 背を向けて歩き出そうとした瞬間、頭の中で声が爆ぜた。 【嫁、行くな。頼む。もうやめる。でもシステムが許さない。】 口ではこう言った。 「行け。世話なんて要らない。」 心の中では。 【嘘つけ! 嫁のトマトと牛肉の煮込み、十三年も想い続けてるんだぞ。】 「お前のことは覚えてない。
続きを読む第2話
結局、あいつを家に拾った。 心が折れたんじゃない。知りたかっただけだ。 二十八年の宿敵が、記憶喪失まで手の込んだことをする。中身が何なのか、見てやる。 退院の日、スーツケースを下げて家のドアの前に立っていた。無垢な顔で言う。 「医者に言われた。今の状態だと、そばに人がいないとだめだって。知ってる人間は……お前しか残ってない。」 腕を組んでドア枠に寄りかかる。 「お父さんとお母さんは。
続きを読む第3話
朝の七時。起きた瞬間、台所から匂いがしていた。 迅は私のピンクのエプロンを締めて卵を焼いている。音を聞いて振り返る。 「おはよう。朝食、作った。食ってから行け。勘違いするなよ。記憶喪失しただけで、廃人じゃない。家事は分けられる。」 【攻略マニュアル第七条:家庭的価値を見せろ! 想、見ろ、半熟卵だ! 四十個、練習したんだぞ!】 ドア枠に寄りかかって、芝居を鑑賞した。 卵が出てくる。
続きを読む第4話
土曜、予定どおりお見合いに出た。 紹介したのは診療科長だ。顔を立てないわけにいかない。場所はレストラン、相手は岡崎、海外帰りの博士で、人は穏やかだった。 座って五分で、携帯が震え始めた。 迅:「うちの給湯器、壊れてるっぽい。ずっと垂れてる。」 十秒後。「台所も音がする。ガスが漏れてないか。」 さらに十秒。「想、頭が少し回る。」 顔色ひとつ変えず、一本返した。 「めまいなら119。
続きを読む第5話
あの日から、ゲームは第二段階に入った。 あいつが攻略を始め、私は「攻略される側」を始めた。 届いた朝食は受け取って、病院の前の野良猫にやり、空の箱には付箋を貼る。「おいしかった。」 翌日、二食持ってくる。私の分と、「下の茶トラ用」。 心の声。【マニュアル第二十三条:屋を愛せば烏まで! 猫が好き=猫を買収しろ! 数千万円の契約、断った。午後いっぱい缶詰を選んだんだぞ!
続きを読む第6話
二週目で、システムの存在が完全に露呈した。 その午後は休みだった。迅が電話を一本取って、こそこそバルコニーへ出る。果物皿を持って通りかかると、ちょうど低い声が聞こえた。 「……そう、マニュアルどおりで。誰か手配してくれ。優しい系で、身分は俺の『記憶喪失前の旧恋』……」 「忘れられない初恋ルートだ。想が、俺にまとわりつかれてる女を見たら、絶対やきもちを焼く。女はみんなこれだ。
続きを読む第7話
その日、月村晴がどう帰ったかは、あまり覚えていない。 覚えているのは、あとで迅が一人、バルコニーに長く立っていたことだ。心の声が途切れ途切れに入ってきて、文にならない。 【ほくろ、覚えてた。】 【何もかも知ってる……違う、何もかも知ってるはずがない……】 【想、お前は、何を考えてる。】 部屋で、半日ぼんやりした。 事故の前夜、実は一度、会いに来ている。 もう十二時近かった。
続きを読む第8話
縫ったあと、あいつは変わった。 口は相変わらず硬い。心の声だけが、だんだん制御できない。 水を注ぐと、「余計だ」と言う。 心の中では。【水を注いでくれた! ぬるま湯だ! 昨日、喉が痛いと言ったら、今日注いでくる! ちょっとでも——】 夜勤の私と、家にいるあいつの心の声は、頭まで届く。 【夜、飯食ったか。救急は忙しくなると食い忘れる。届けるか。……だめだ、記憶喪失者だ、親切すぎるのはまずい。
続きを読む第9話
異変は、五十九日目に起きた。 賭けの期限まで、あと一ヶ月。 その日は夜勤だった。深夜一時すぎ、カルテを書いていると、首のペンダントがいきなり熱くなった。 温かい、じゃない。熱い。誰かが火を点けたみたいに熱い。 十何年下げて、一度も動かなかった塊だ。 三秒見つめて、心の弦が急に張り詰めた。科長に休みをもらい、コートを掴んで家へ走った。 ドアを開けると、居間は真っ黒だ。 迅がソファに座っている。
続きを読む第10話
網を引くには、刃が要る。 従弟の樫野翼に電話した。 翼は芸大の演劇科三年、一八五センチ、唇は赤く歯は白い。役は本物だ。小さい頃から、囮や援護を何度も頼んできた。 「姉ちゃん、また言い寄り役? この前の謝恩会のツケ、まだだぞ。」 「今回は上乗せする。上位の恋敵。しつこくて、ロマンチックな攻勢、あの系統。」 「相手、また久我社長? 姉ちゃん、記憶喪失した病人を刺激していいのか。」 「記憶喪失してない。
続きを読む第11話
小さな庭で塞がれたとき、驚きは一ミリもなかった。 迅が玄関から飛び出した。髪は乱れ、足はスリッパのまま、私の手首をぐっと掴む。 「想、行くな!」 夜風は冷たい。街灯が、あいつの影を長く引く。 足を止めて、あいつを見て、ゆっくり腕を引き抜いた。 「迅、私たちは知り合いじゃない。」 「知り合いだ。」私を死ぬほど見つめて、目が怖いほど赤い。「二十八年の知り合いだ。」 「へえ。」眉を上げる。
続きを読む第12話
「記憶喪失してない。」一字一句、肋骨を一本ずつ抜いて見せるみたいだった。 「事故は嘘だ。記憶喪失も嘘だ。月村晴は五万円で雇った。台詞までシステムが配った。システムを繋いで、任務は三ヶ月以内にお前から先に好きだと言わせることだ——想、負けた。五十九日目に負けた。先に言ったのは俺だ。先に好きだったのも俺だ。認める。」 あいつを見て、何も言わなかった。 話す速度が上がって、自棄になっていく。
続きを読む第13話
翌日、迅があの鉄の小箱を抱えてきて、私の目の前で開けた。 半分の消しゴム、罰の書き取り一枚、他人に書いたのを横取りされたラブレター一通、四つ折りの紙一枚。 広げると、十六の年に書いた願いの紙だった。 原稿だ。屋上に捨てたはずなのに。 「そのとき、そこにいた。」あいつは言った。「嫌いだと言ったのは嘘だ。家が転学を決めようとしてて、泣かれるのが怖かった。
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