
あらすじ
男の秘書を、三年、抱いた。
毎日、絡みついて、床へ引き込んだ。
また死ぬほど絡み合っている最中、眼前を数行の弾幕が流れた。
【来た来た。悪女の偽令嬢、まだ自分のいい暮らしが終わるなんて知らない。】
【青柳瑛、可哀想。天野家の実子なのに、取り違えられただけじゃ足りず、大人になって巣を奪った女に身を売れ。】
【あと数日耐えろ。親子鑑定が出る。実家に戻って、うちのそのと出会い、この女を顔面から殴れ。】
【そのこそ公式カップル! 善良な女主に、本物の御曹司。完璧!】
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第1話
男の秘書を、三年、抱いた。 毎日、絡みついて、床へ引き込んだ。
また死ぬほど絡み合っている最中、眼前を数行の弾幕が流れた。
【来た来た。悪女の偽令嬢、まだ自分のいい暮らしが終わるなんて知らない。】 【青柳瑛、可哀想。天野家の実子なのに、取り違えられただけじゃ足りず、大人になって巣を奪った女に身を売れ。】 【あと数日耐えろ。親子鑑定が出る。実家に戻って、うちのそのと出会い、この女を顔面から殴れ。】 【そのこそ公式カップル! 善良な女主に、本物の御曹司。完璧!】 —— 青柳瑛は、私の首席補佐だ。
朝の七時、彼は私のベッドから起き、上半身裸で椅子のシャツへ手を伸ばす。背中に何本かの掻き傷。昨夜、私が付けた。
ベッドのヘッドに凭れて、彼がボタンを留めるのを見る。
指が長い。下から上へ、一粒一粒、昨夜私が裂いたところを全部戻し、最後にネクタイを結び、取締役会で一滴も漏らさない青柳補佐に戻る。
「コーヒーは厨房にあります。九点に会議です。」
「うん。」
声はぐうたらで、満ち足りている。
「西区の土地、午後にプランを見る。」
「承知しました。」
入口まで歩く。止まって振り返る。何か言うのかと思ったら、訊くだけだった。
「今夜も、参りますか。」
「うん。」
これが決まりだ。
三年前、彼の母親が重病で、二千万円足りなかった。カルテの束を抱えて私の執務室の前に跪き、三時間、跪いた。
金は出す。条件は、お前という人間を三年、私に渡せ、と言った。
彼は応じた。
ずっと、安い買い物だと思っていた。
仕事は全社でいちばん綺麗。床の上もそうだ。
私が金を出し、彼が体を出す。誰も誰にも借りていない。
その夜。 眼前を、いきなり一行が流れた。
【来た来た。悪女の偽令嬢、まだ青柳瑛に絡みついてる。いい暮らしが終わるなんて、知らない。】
目の錯覚だと思った。 二行目が、すぐ続く。
【これが二千万円で本物の御曹司を三年買った女。みんな、この顔を覚えろ。天野家から転がり落ちる日に、墓まで掘りに来い。】
急に、寒気がした。
青柳瑛が止まって、どうした、と訊く。 何でもない、続けて、と言った。
だが字は増える一方で、眼前を一行一行、転がる。誰かが網膜に配信を開いたみたいだ。
【青柳瑛、可哀想。天野家の実子なのに、取り違えられただけじゃ足りず、大人になって巣を奪った女に身を売れ。】 【あと数日耐えろ。親子鑑定が出る。実家に戻って、うちのそのと出会い、この女を顔面から殴れ。】 【そのこそ公式カップル! 善良な女主に、本物の御曹司。完璧!】
「親子鑑定」の四字を、数秒、見つめる。
それから三年で初めて、青柳瑛を押しのけた。
「今夜は、なし。」
動きが止まる。喉仏が、堪らなそうに転がる。
「いいですよ。」
数秒後、口角が一線、笑いに引かれる。後ろから抱き寄せ、顎を肩の窪みへ乗せる。
「じゃあ、抱いて寝ます。寝るだけ。」
一拍置いて、熱い息が耳の後ろへかかる。
「何時まで持てるか、見ますよ。」
「やめなさい。」
自分では体面だと思う理由を探す。
「最近、あんたが疲れすぎ。おばさん、また再検査でしょ。早く休みなさい。」
弾幕が炸ける。
【吐いた。嘘だ! 風の声を聞いたんだろ?】 【賢妻ぶって。悪女の脇役、逃げ道を敷き始めた。】 【瑛、信じるな! 飽きたから切るだけ。いい人ぶってる!】
息が詰まりそうになる。説明したい。この字が見えるとは、言えない。
青柳瑛は聞き終え、背中で二秒、静かになる。ふと身を返し、上に乗り、私を隙間なく覆う。
「疲れが心配?」
呼吸が顔に落ちる。
「昨夜、止めさせるなと言ったのは誰です。」
「本気よ。」
「俺も本気です。」
俯き、鼻先が耳輪を掠め、声が低くなる。
「天野知紗、いつから人を心配するようになった。あなたらしくない。」
押す。動かない。
この人は、会社では私が一と言えば二と言わない。床の上だけは、道理を言わない。
「そうされると、」
耳垂を一噛み、ゆっくり言う。
「釣っている、と勘違いしますよ。」
弾幕が怒って画面を埋め尽くす。
【何が釣りだ! 贖罪だ!】 【本物の御曹司、目を覚ませ。乖くなったんじゃない。怖がったんだ!】 【水曜、鑑定センター。報告が出た瞬間、社会的死亡。まだ釣れるか見てろ!】
体が強張る。
親子鑑定。弾幕が、今日二度目に出した四字だ。
今度は、日時まで出してきた。
鑑定が本当なら——誰が、私に隠して、この鑑定をした。
頭が、ますます乱れる。
もう青柳瑛に道理を言わない。枕を抱えて、客間へ行った。
青柳瑛の体には、抗えない。 また一緒に寝たら、火が付くのが目に見えている。
目次
13 話
第1話
男の秘書を、三年、抱いた。 毎日、絡みついて、床へ引き込んだ。 また死ぬほど絡み合っている最中、眼前を数行の弾幕が流れた。 【来た来た。悪女の偽令嬢、まだ自分のいい暮らしが終わるなんて知らない。】 【青柳瑛、可哀想。天野家の実子なのに、取り違えられただけじゃ足りず、大人になって巣を奪った女に身を売れ。】 【あと数日耐えろ。親子鑑定が出る。実家に戻って、うちのそのと出会い、この女を顔面から殴れ。
続きを読む第2話
実を言うと、青柳瑛を囲う前、一度、拒まれている。 一目で、嵌まった。 入社三日目、飯に誘った。執務机の前に立ち、スーツを真っ直ぐ着て、言う。天野社長、自重してください。 時計を贈った。翌日、封も切らずに戻ってきた。付箋一枚。高価すぎて、受け取れません。 メッセージを送る。仕事に関することだけ返す。 天野知紗が欲しい人間など、いくらでもいる。何度も顔を潰され、火が消えた。 のち、酒会で放言した。
続きを読む第3話
その夜、彼を家まで送ったあと、車を返し、夜通し天野邸へ走った。 天野邸の灯は、まだついている。 ママ、天野琴はマスクを貼ってリビングで財務を見ている。パパ、天野文彦は横でみかんを剥いている。 この画面を、小さい頃から見ている。 ママは商界で名高い鉄の女。パパは誰もが褒める賢内助で、温く、礼を知り、慈善の夜会ではいつもママの腕を取り、攻撃性のない笑いを浮かべる。
続きを読む第4話
偽令嬢としての自分に、先に慣れることにした。 夜中に青柳瑛を呼ばない。行程を調べない。 車を、彼の家の下へ入れない。 淹れたコーヒーは飲む。渡された書類にはサインする。 今夜来るかと訊かれ、あんたはあんたの用をなさい、と言う。 社内の誰もが言う。天野社長、最近、機嫌がいい。 青柳瑛だけが、おかしくなっていく。 以前は毎日午後三時、青柳瑛の執務室に十分、座った。
続きを読む第5話
その消息は、一目見て消した。 水曜午前十時、鑑定センター。弾幕の言ったことは、全部、本当だった。 いい。真相はいつか来る。早いほうが、楽だ。 携帯をポケットへ戻し、何も訊かない。 いまの第一は、体面を保って退場することだ。 天野家も、社長の席も、この三年も、全部、返す。 翌日、熱が出た。 半月、休みなく回して、鉄の人間でも持たない。 家に閉じこもり、携帯をサイレントにし、熱で天地が昏い。
続きを読む第6話
火曜の夜、商会の酒会。 こういう場に、青柳瑛以外を連れたことはない。 正装が似合う。肩が広く、脚が長い。杯を持って私の半歩後ろに立ち、誰が祝杯に来ても先に受け、一滴も漏らさない。 以前の私は、これを享受していた。 金で買った体面を、享受しない理由がない。 今夜は違う。長く見つめ、思う。明日の十時以降、誰の半歩後ろにも立たなくていい。 変事は、九時半。 安達グループの安達麗が、酔っている。
続きを読む第7話
水曜午前九時半、鑑定センターに着いたとき、雨が降っていた。 一週間前に出した検体が、今日、結果になる。 ホールに座り、そのクラフト袋を握り、一手、汗になる。なかなか開けない。 開けても開けなくても、同じだ。 ここに来たのは儀式が欲しかっただけだ。心を、きれいに死なせるため。 九時五十、入口から二人、入ってくる。 青柳瑛が黒い傘を差し、縁を横へ傾け、傍の女の雨を受けている。白いスカート、ファイル袋。
続きを読む第8話
夜の七時、天野邸の食堂。一卓の料理に、誰も手をつけない。 パパとママが一方、私が一方。あいだの茶卓に、二通。 私の鑑定報告と、青柳瑛の。 「パパ、ママ。」 口を開く。声は、自分が思うより安定している。 「二十八年前、仁桜病院の産科。同じ夜に産んだ女が、もう一人……」 呼び鈴が鳴る。 家政婦が開け、青柳瑛が入口に立つ。補佐に渡させたファイル袋を下げ、顔色は静かで、静かなのが異常だ。 「天野社長。
続きを読む第9話
親子認定のあと、青柳瑛は天野邸へ移り、隣の部屋に住む。 ママの言葉は、姉弟は小さい頃に分かれ、いまはちゃんと情を育てよ、だ。 情を育てた結果、毎朝ドアを開けると、牛乳を持って入口に立っている。 「姉さん、おはよう。」 「……早。」 「姉さん、今日は冷える。マフラー。」 「……ありがとう。」 「姉さん……」 「青柳瑛。」 とうとう我慢できない。 「会社では、天野社長、と呼びなさい。
続きを読む第10話
葉山敦は大学の先輩で、心臓外科医。年少の無知なころ、好きだった型だ。 温く、綺麗で、笑うと目が細くなる。 大学のころは思っていた。嫁ぐならこういう人だ、日々は安定する、と。 のち、彼は海外へ研修し、私は会社を継ぎ、その話は過ぎた。 週末のカフェ。相変わらずだ。白いセーター、金縁の眼鏡。砂糖の包みを開いてから、押しやってくる。 「知紗。」 言う。 「今度は、もう行かない。」 「そう。
続きを読む第11話
「姉さん。」 立ち上がり、一歩ずつ歩き、パパとママの前で、私の前に止まる。 「先に、一つ、答えろ。」 「何。」 「三年前、契約を結んだとき、」 一字一句、目が怖いくらい明るい。 「書いてあった。恋愛禁止、外泊禁止、俺以外の男の前に一分以上立つな。」 「……その条は、あった。」 「金は、貸し借りなしだ。」 屈み、耳元で、二人にしか聞こえない声。 「だが三年、独占した。この帳は、まだだ。
続きを読む第12話
階段の人感灯が消える。 踏む。また点く。 青柳瑛はまだ手首を掴んでいる。雨水が顎を伝って落ちる。 「何を借りた。」 問い返す。 「青柳瑛、心に数がないの。二十八年の人生を奪った。お母さんが天野家からお前を入れ替えた。家に住み、金を使い、本を読み、二千万円であんたを三年、買った。」 「調べた。」 言う。 「母親がしたことは、全部、調べた。あの日、産室の夜勤、魔が差して二つの腕輪を替えた。
続きを読む番外
結局、天野家へ嫁いだ。 正確に言えば、天野家へ、嫁ぎ戻った。 入籍の前夜、ママが二人を書斎へ呼び、家庭会議だと言う。 パパが横に座り、前に古くなったノート。表紙に三字。天野家の家規。 「第一条。」 ママが読む。 「金で人を買うな。」 俯いて認める。 「ママ、分かってる。悪かった。」 「第二条。」 次の頁。 「買ったら、最後まで責任を取れ。」 私。「?」 パパが横でゆっくり補う。
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