第2話 / 全13話

第2話

実を言うと、青柳瑛を囲う前、一度、拒まれている。

一目で、嵌まった。

入社三日目、飯に誘った。執務机の前に立ち、スーツを真っ直ぐ着て、言う。天野社長、自重してください。

時計を贈った。翌日、封も切らずに戻ってきた。付箋一枚。高価すぎて、受け取れません。

メッセージを送る。仕事に関することだけ返す。

天野知紗が欲しい人間など、いくらでもいる。何度も顔を潰され、火が消えた。

のち、酒会で放言した。男への興味は、三ヶ月を超えたことがない、と。

だからあの夜、カルテを抱えて跪かれたとき、かえって確信した。この人は私に心を動かされたのではない。二千万円に折れたのだ。

一緒にいたいのではない。金が足りないだけだ。  契約が切れる日、必ず行く。

青柳瑛は綺麗で有能で、界隈の令嬢も富豪も、狙っている。  三年が満ちたら、十分な手当を渡し、金のためにまた誰かへ身を委ねなくていいようにするつもりだった。

これでいい。彼には天野家の庇護がつく。  私は、親子鑑定のあと、清算される。

翌日、会社で二件、した。

一つ、契約の「呼べば来る」を線で消した。  弁護士は気が狂ったと思い、三度、確認した。

二つ、青柳瑛の給与を上げた。生涯、誰の顔色も見なくていい数字まで。

贖罪は、早いほうがいい。

弾幕の言うとおりだ。二十八年の人生を奪い、三年の体を奪った。清算の前に、返せる分は返す。

ピーク・エンドの法則。終わりにいい体験を渡せば、恨みが大幅に減る。

弾幕が、また流れる。

【リストまで作った!】 【見て、贖罪を表にしてる。返すたびにチェック。】 【笑うな。鰐の涙も、定量できる。】

見えないふりをして、リストを携帯のメモへ保存する。

一項目。自由を返す。

青柳瑛の反応は、静かだった。

「天野社長、これは何です。」

机の向かいに立ち、線を引いた契約を押し戻す。

「あんたへの補償。」

「補償。」

繰り返して、一度、笑う。

「三年の契約は、まだ切れていません。天野社長は、前倒しで解約したいのですか。」

「解約じゃない。」

言う。

「前の条項が、ひどすぎただけ。」

「ひどい。」

身を屈め、両手を机の縁に支える。

「最初に言ったのは誰です。青柳瑛、呼べば来い、拒むな、と。」

私だ。

「契約中、恋愛禁止、外泊禁止、他の女の酒会に一分以上立つな、と言ったのは誰です。」

それも、私だ。

弾幕が眼前で浮かれる。

【ははは、怖がった!】 【遅いよ姉さん。やったことは、全部、殴り返す平手になる。】 【瑛、砂糖の砲弾に騙されるな。真相の前に自分をきれいに抜くだけだ!】

歯を食いしばって言い切る。

「以前は、なし。これから、自由よ。」

執務室が、長く静かになる。

青柳瑛は身を起こし、紙を折ってポケットへ入れる。

「いいです。天野社長の仰るとおりに。」

息をつく。受けてくれればいい。

夜の十一時、地下車庫で車に座った瞬間、助手席のドアが開く。

青柳瑛が乗り込む。寒気を一身に纏って。

「何を……」

後頸を押さえ、口づけてくる。

この口づけに、いつもの忍耐はない。重く、急いで、何かがまだあるか確かめているみたいだ。

座面に圧され、背中が窓に当たる。ガラスが冷たくて、震える。

やっと離し、額を額に当てる。二人の呼吸が、乱れている。

「飽きた。」

声が低く、かすれている。

「ない。」

「外に、誰か。」

「は?」

「天野知紗。」

目を見つめ、一字一字。

「すぐに飽きると、あなたが言った。俺は信じていなかった。いま教えてください。どの段で、狂った。」 「俺が老けた、と?」 「昨日入った若い実習生のほうがいい。そうでしょう。」 「昨日、十秒、見ていました。」

青柳瑛の、無法なほど綺麗な顔を見て、無意識に首を振る。実習生のどこが、あんたより綺麗だというのよ。

「それとも、天野社長の世話が足りない。」

言いながら、スカートを高く押し上げる。

「床が退屈なら、替えます。」

次の瞬間、ここで実力を証明しそうだ。

「ない。あんたは十分。考えすぎ。」

身上を這う手を、間に合うように止める。

あの方面は、満足して仕方ない。  三年、飽きない。髄まで知って、ますます欲しくなる。

「嘘だ。昨夜、客間へ移った。」

口を開く。一字も出ない。

どう説明する。  眼前を、私にしか見えない字が流れていて、私は取り違えの偽令嬢で、二十八年、席を奪い、数日後に追い出されるから、先に手を放した、と?

弾幕が眼前を狂ったように刷る。

【いい芝居が始まる。男主、この女がどれほど悪いか、もうすぐ知る。】 【水曜、鑑定センター、その場で社会的死亡。椅子、もう運んだ。】

「どうした。説明すら、したくない。」 「そんなに急いで、俺を押しのけたい。」

眼前の男の、赤い目尻を見る。もう余計なことは言わない。手を上げて首に腕をかけ、自分から口づける。

戦略を忘れない。清算の前に、いい体験を渡せ。

青柳瑛は半秒、固まり、すぐに腰を固く押さえて、身体ごと座面へ圧す。

車庫の人感灯が消え、闇に呼吸だけが残る。一回ごとに、重い。