第1話 / 全13話

第1話

男の秘書を、三年、抱いた。  毎日、絡みついて、床へ引き込んだ。

また死ぬほど絡み合っている最中、眼前を数行の弾幕が流れた。

【来た来た。悪女の偽令嬢、まだ自分のいい暮らしが終わるなんて知らない。】 【青柳瑛、可哀想。天野家の実子なのに、取り違えられただけじゃ足りず、大人になって巣を奪った女に身を売れ。】 【あと数日耐えろ。親子鑑定が出る。実家に戻って、うちのそのと出会い、この女を顔面から殴れ。】 【そのこそ公式カップル! 善良な女主に、本物の御曹司。完璧!】 ——  青柳瑛は、私の首席補佐だ。

朝の七時、彼は私のベッドから起き、上半身裸で椅子のシャツへ手を伸ばす。背中に何本かの掻き傷。昨夜、私が付けた。

ベッドのヘッドに凭れて、彼がボタンを留めるのを見る。

指が長い。下から上へ、一粒一粒、昨夜私が裂いたところを全部戻し、最後にネクタイを結び、取締役会で一滴も漏らさない青柳補佐に戻る。

「コーヒーは厨房にあります。九点に会議です。」

「うん。」

声はぐうたらで、満ち足りている。

「西区の土地、午後にプランを見る。」

「承知しました。」

入口まで歩く。止まって振り返る。何か言うのかと思ったら、訊くだけだった。

「今夜も、参りますか。」

「うん。」

これが決まりだ。

三年前、彼の母親が重病で、二千万円足りなかった。カルテの束を抱えて私の執務室の前に跪き、三時間、跪いた。

金は出す。条件は、お前という人間を三年、私に渡せ、と言った。

彼は応じた。

ずっと、安い買い物だと思っていた。

仕事は全社でいちばん綺麗。床の上もそうだ。

私が金を出し、彼が体を出す。誰も誰にも借りていない。

その夜。  眼前を、いきなり一行が流れた。

【来た来た。悪女の偽令嬢、まだ青柳瑛に絡みついてる。いい暮らしが終わるなんて、知らない。】

目の錯覚だと思った。  二行目が、すぐ続く。

【これが二千万円で本物の御曹司を三年買った女。みんな、この顔を覚えろ。天野家から転がり落ちる日に、墓まで掘りに来い。】

急に、寒気がした。

青柳瑛が止まって、どうした、と訊く。  何でもない、続けて、と言った。

だが字は増える一方で、眼前を一行一行、転がる。誰かが網膜に配信を開いたみたいだ。

【青柳瑛、可哀想。天野家の実子なのに、取り違えられただけじゃ足りず、大人になって巣を奪った女に身を売れ。】 【あと数日耐えろ。親子鑑定が出る。実家に戻って、うちのそのと出会い、この女を顔面から殴れ。】 【そのこそ公式カップル! 善良な女主に、本物の御曹司。完璧!】

「親子鑑定」の四字を、数秒、見つめる。

それから三年で初めて、青柳瑛を押しのけた。

「今夜は、なし。」

動きが止まる。喉仏が、堪らなそうに転がる。

「いいですよ。」

数秒後、口角が一線、笑いに引かれる。後ろから抱き寄せ、顎を肩の窪みへ乗せる。

「じゃあ、抱いて寝ます。寝るだけ。」

一拍置いて、熱い息が耳の後ろへかかる。

「何時まで持てるか、見ますよ。」

「やめなさい。」

自分では体面だと思う理由を探す。

「最近、あんたが疲れすぎ。おばさん、また再検査でしょ。早く休みなさい。」

弾幕が炸ける。

【吐いた。嘘だ! 風の声を聞いたんだろ?】 【賢妻ぶって。悪女の脇役、逃げ道を敷き始めた。】 【瑛、信じるな! 飽きたから切るだけ。いい人ぶってる!】

息が詰まりそうになる。説明したい。この字が見えるとは、言えない。

青柳瑛は聞き終え、背中で二秒、静かになる。ふと身を返し、上に乗り、私を隙間なく覆う。

「疲れが心配?」

呼吸が顔に落ちる。

「昨夜、止めさせるなと言ったのは誰です。」

「本気よ。」

「俺も本気です。」

俯き、鼻先が耳輪を掠め、声が低くなる。

「天野知紗、いつから人を心配するようになった。あなたらしくない。」

押す。動かない。

この人は、会社では私が一と言えば二と言わない。床の上だけは、道理を言わない。

「そうされると、」

耳垂を一噛み、ゆっくり言う。

「釣っている、と勘違いしますよ。」

弾幕が怒って画面を埋め尽くす。

【何が釣りだ! 贖罪だ!】 【本物の御曹司、目を覚ませ。乖くなったんじゃない。怖がったんだ!】 【水曜、鑑定センター。報告が出た瞬間、社会的死亡。まだ釣れるか見てろ!】

体が強張る。

親子鑑定。弾幕が、今日二度目に出した四字だ。

今度は、日時まで出してきた。

鑑定が本当なら——誰が、私に隠して、この鑑定をした。

頭が、ますます乱れる。

もう青柳瑛に道理を言わない。枕を抱えて、客間へ行った。

青柳瑛の体には、抗えない。  また一緒に寝たら、火が付くのが目に見えている。