第7話 / 全71話

第7話

兵部尚書の屋敷を訪れた日のことだった。書斎へ案内されると、兵部尚書は申し訳なさそうに頭を下げた。

「殿下、少々お待ちくださいませ。ちょうど急ぎ確認しなければならない書類がございまして」

書類。その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を輝かせた。書類?この時代なら普通は奏状、公文書、軍報などと呼ぶはずだ。なのに、今この人は「書類」と言った。もしかして――。

私は期待を隠しながら、兵部尚書をじっと見つめた。

「……こんにちは」

兵部尚書は筆を止めた。

「……殿下?」

「こんにちは」

もう一度言う。すると兵部尚書は困ったように眉を寄せ、窓の外へ視線を向けた。

「殿下……」

「何か問題でも?」

「いえ。ただ……現在は申の刻でございますので」

「……」

「昼ではなく、夕刻かと」

私は心の中でため息をついた。違う。そこじゃない。私が確認したいのは時間ではない。その言葉に反応するかどうかなのだ。しかし、兵部尚書の表情を見る限り、どうやら違うらしい。

それでも諦めきれず、私は彼の机の前まで歩いた。

「ありがとう」

兵部尚書はさらに困惑した。

「殿下?」

「ありがとう」

すると彼は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。

「殿下、どうかおやめくださいませ。臣の屋敷へお越しいただいたことこそ、臣にとってこの上ない光栄でございます」

……違う。完全に違う。私は最後の可能性に賭けることにした。兵部尚書の目を見つめ、一文字ずつはっきり発音する。

「How are you?」

その瞬間。空気が凍った。兵部尚書の手にしていた筆が、空中でぴたりと止まる。彼の顔には、はっきりと書いてあった。

(殿下……今、何をおっしゃったのですか?)

……終了。この人ではない。そう思った瞬間だった。兵部尚書が突然、自分の額を叩いた。

「なるほど!」

「臣、理解いたしました!」

私は思わず顔を上げる。

「……何を?」

兵部尚書は興奮した様子で私を見る。

「殿下のお言葉は、西方諸国の言葉でございますね?」

「……」

「実は臣、最近異国の文化について研究しておりまして」

そう言うと、彼は急いで棚を開け、大量の書物を取り出した。

「こちらをご覧くださいませ!」

「西域の言語、風習、歴史についてまとめた資料でございます!」

「殿下がお望みなら、今夜一晩かけて研究いたしましょう!」

私は机の上に並べられた、見覚えのない文字だらけの資料を見る。……惜しい。方向性は近い。でも違う。

兵部尚書は真剣な顔で尋ねた。

「殿下」

「先ほどの『ハワユー』とは、西域ではどのような意味なのでしょう?」

私はしばらく沈黙した。そして静かに答えた。

「……元気です。ありがとう、という意味です」

兵部尚書の目が輝いた。

「やはり!」

「殿下は深い意味を込めておられたのですね!」

私はその場で悟った。古代人の想像力は、現代人より遥かに豊かである。

翌日の朝議。事件は起きた。兵部尚書は満面の笑みで皇帝の前へ進み出た。

「陛下!」

「太子殿下は、まさに天下を見据えるお方でございます!」

嫌な予感がした。

「昨夜、殿下とは西域の言語について深く語り合いました!」

「さらには異国の文化にも精通されております!」

「臣など、まだまだ未熟でございました!」

朝堂が静まり返った。百官の視線が一斉に私へ集まる。私はただ思った。違う。本当に違う。私は「How are you」と言っただけだ。なぜそれが、西域文化の研究になる?

その時。玉座の上に座る皇帝と目が合った。皇帝は頬杖をつきながら、どこか楽しそうに私を見ていた。その視線は長く、妙に優しかった。最近、この皇帝はなぜか私を見ることが多い。まるで――ずっと探していたものを見つけたような目で。