第1話 / 全21話

第1話

五年ぶりだった。  篠宮玲が私に最初にしたことは、幼稚園の門前で、人だかりの真ん中に片膝をついて、スカートの裾をめくることだった。

——この話は、三分前から始まる。

夏の朝。私は園の門前にしゃがみ、四歳の息子のランドセルを整えていた。

「ママ」  きらが顔を上げる。鼻先に汗が光っている。 「今日、一番に迎えに来てくれる?」

「来てあげる」  恐竜の肩ひもをまっすぐに直し、頭を撫でた。 「さあ、遅れないで」

小さな体が門の中へ走る。途中で振り返り、手を振って、八重歯を二つ見せた。私も笑って手を振る。

そして、振り向いた——

「ドン」

ロールス・ロイスに、ぶつけられた。  ぶつけられた、というのは大げさだ。かすった、くらい。指の関節で軽く叩かれたような衝撃。  それでも、火が上がった。  豪車に乗ってるからって偉いのか。目は後頭部についてるのか。  園の前では、怒鳴れない。  深呼吸して、頭の中の罵倒を一度ふるいにかけ、放送できる言葉に差し替えた。

ドアが開く。  先に冷気が流れ、それから一本の脚。  スラックス。革靴。折り目は直線で、甲は人の顔が映るほどきれいだ。 「カチャ」  ドアが閉まる音が低くて重い。隣でがやがやしていた保護者の輪が、一瞬で縮んだ。  誰かが息を呑む。  誰かが小さく言う。 「あれ、もしかして——」  後半は、喉の奥へ押し戻された。

顔を上げて、その顔を見た瞬間、頭の中で「ワン」と鳴った。  篠宮玲。  五年。もう二度と会わないと思っていた人だ。  五年前より高く、細い。オートクチュールのスーツが肩の線を押さえ、氷室から引きずり出したみたいに冷たい。頭上の太陽さえ、彼を温められない。  逆光の中で動かず、私を釘づけにしている。

終わった。  顔を見られた。  私は後ろに鬼でもいるみたいに、すぐ歩き出した。  手首を、一把、掴まれる。

「怪我はどこだ。見せろ」  頭上の声は、澄んで冷たい。五年前と、一字も違わない。

「け、怪我なんかしてない」  力を入れて振っても、抜けない。 「篠宮さん、車は当たってません。道を塞いだのは私です。すみません、今すぐ消えます」

彼は黙った。  そのかわり、親指が手首の内側を、ゆっくり撫でた。  昔、なだめるときの癖だ。  それだけで、体の半分が瞬間に痺れた。産毛が根元から立ち、細い電流が尾骨から後頭部まで這い上がる。  五年。  五年かけて積んだ自制が、指一本の前で総崩れした。

「もう動くな」  身を屈め、声を低くする。耳を噛むみたいに近い。 「動いたら、この場でキスする」

顔を上げた。  朝のピークの園の前。子どもを送る保護者、卵を焼いている屋台のおばさん、電動自転車で突っ走る通勤客——視線が探照灯みたいに、一斉に刺さる。  屋台のおばさんがヘラを上げたまま、卵の片面を忘れている。  鏡を見なくても、耳が真っ赤なのはわかった。  動けなくなった。

篠宮玲は手首を放した。  逃がしてくれるのだと思った。  次の秒、片膝をついた。

「何して——」

節くれだった指が、スカートの裾をめくる。  車内の冷気が指先に残っていて、膝に触れた瞬間、その場で跳ねそうになった。

「篠宮玲!」  声を殺して怒鳴る。 「狂ったの」

相手にしない。指はふくらはぎを滑り、膝の外側で止まった。  爪の大きさほどの擦り傷。血が滲んでいる——さっき、車にかすられた痕だ。  はっきり見えた。睫毛が、一度、震えた。  その一拍で、五年張っていた氷が、「カチッ」と裂けた。

スカートを押さえようとして手を伸ばす。 「これくらい、帰ってイソジン塗れば——」

「っ」

天地が回った。  腰から抱き上げられ、冷気と薄い煙草の匂いの混ざった胸へ叩き込まれた。  反射で首に腕を回し、気づいたときには鼻先が鎖骨に当たっていた。  あのほくろは、昔の位置にある。  以前、止まってくれないとき、私はいつもそのほくろを、思い切り噛んだ。

「篠宮玲! 下ろして」

聞こえていない。通りの真ん中で助手席に押し込み、片手でドア枠を支え、もう片方でシートベルトを引き寄せる。 「カチッ」  金属がはまる音は、宣告みたいに脆い。

「座ってろ」  顔を強張らせたまま。 「病院だ」

「篠宮玲」  息を吸う。 「もう私は——」

「何が、もう、だ」  知ってて聞いている。 「……」  黙った。

「九時半、大事な取引先がある」

「住所」

「は?」

「取引先の住所だ」  エンジンをかけ、ロールス・ロイスが幹線へ滑り込む。 「病院を出たら、送る」

「……」  いいだろう。  住所を言った。  嘘の。

車内のエアコンは低く、前腕に鳥肌が立つ。  篠宮玲が手を伸ばし、温度を二度上げた。  手つきが馴れていて、この五年、一度も別れたことがないみたいだった。  私は黙って、窓の外を見た。