第2話 / 全15話

第2話

話は、入社初日に遡る。

私は橘川杏、二十六歳。蒼海テック運用部の新人で、主な仕事はAIライブ配信「エコーミラー」のトーク原稿を書くことだ。

その日の朝のラッシュ。エレベーターは人でいっぱいだった。

人の流れに押されて隅へ追いやられ、片肩が宙に浮く。手のコーヒーが袖口に少し跳ねて、熱くて苛立った。

隣に立っていた男は、高く、冷たく、違法なくらい整っていた。

眉も目も鋭く、肌は冷たい白さ。肩の線が張りすぎている。朝のラッシュのエレベーターに立っているのに、人間の生活圏に紛れ込んだ品質検査員みたいで、私たち貧乏人の惨めさを検品しているみたいだった。

周防慧。

うちの社長で、蒼海テックの創業者。噂では、買収の席ではコーヒーを飲まず、相手の血を飲む。三十歳で未婚、女性アレルギーの疑いあり、とも。

噂が本当かどうかは知らない。知っているのは、一人で三人分の場所を取って、しかも無表情だということだけだ。

頭を下げたまま、心の中でバチバチ言った。

【何押してんだ。資本家はエレベーターに結界でも張るのか】

【その肩、IPOの上場ベルで鍛えたのか。場所を取りすぎだ】

【もう少し押したら、このコーヒーをそのオーダーメイドに吹きかける。今日のうちに社会面だ】

周防慧が、いきなり横を向いて私を見た。

その目は、バックエンドのデータ異常で飛び出す赤い警告みたいだった。

私はすぐ、社畜の標準スマイルを作った。

「周防社長、おはようございます。」

彼は二秒、私を見た。

「……おはよう。」

声は低くて嗄れていて、眠れなかったみたいだった。

十八階で扉が開くと、人の群れが一気に散る。

豆乳を抱えて外へ飛び出し、心の中ではまだ罵っていた。

【もう無理。資本家は呼吸まで会議みたいだ】

後ろで、周防慧の足音が一拍、止まった。

当時の私は知らなかった。あれは気のせいではなかった。